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親父が死にました。

更新日:2020年8月2日


親父が死にました。



2013年9月16日22:41 稲田太 死去


今日親父のお葬式を終えて、今この事実を忘れない為にいろいろと書きなぐっていきたいと思う。


そしていつかのタイミングで下書きで置いておるこの日記を公開したいと思う。


2013年1月頃から具合が悪く、仕事を休んだり、早退したり、病院にいってもいまいち原因が分からないままで2月に入る。


お正月には、小さいトイプードルがいる親父の一人ぐらしの家にいき、孫の顔をみせにいった。その時には体に蕁麻疹の様なぶつぶつがあって「調子が悪い」とは言ってたんだけどまさかそこからどんどん悪くなるとは思ってなくて。


2月に入って、大きな病院に移って診断するとすぐに白血病だと分かる。

親父は僕らに迷惑をかけないようにと思い、病気発覚、緊急入院してから約2週間後に連絡が来た。


2週間後に連絡が来たのは、もう嘘がつけない状況まで悪化してたみたいで、ほんまなら家族に言わずになんとかするつもりだったみたい。

例えばお金の事、世話の事、過去の事、未来の事、全て含めてもう親父は僕ら家族に頼らない人生を選んでたからだ。


それもそのはず、 実は親父とおかんは2011年に離婚。約25年間守り続けた一軒家を売り飛ばし、30年間の結婚生活に終止符を打ち、別々の道を歩んでた。


親父はおかんを僕ら兄弟に預けた責任で、病気の事は言わなかった。。。。


親父は一度だけ俺の家族が住む家に遊びに来て、

「大輔、おかんは頼んだ。俺は親父としてダメな親父だったけど新しい人生を歩みたい」と言ってきた。


僕は即答で「もちろん、第2の人生を歩んだらいい」「おかんと合わないのはわかってたけど、俺たち兄弟の為になんとか別れず我慢してたんだろ。もう好きにしたら」

と想いを交わしていた。


そして親父は新しい第2の人生を全うする本当にスタートを切ったばかりだったから。。。。。


親父とおかんとの関係は、20歳そこそこで結婚。その後、俺ら兄弟3人を産んで、普通の一般家庭の様に育ててくれてた。


親父は大阪のチンピラで、僕が小さいときはよく仲間を連れてきては台所のテーブルにあがって酒を片手によく仲間と大声で叫んでた。


あるときは玄関に置いている刀みたいなものを持って「仲間守ってくるわ」的なことを行って玄関から出て行った時もあった。

あるときは顔面出血多量で、「やくざと喧嘩してもうた」「頭突き」入れたら前歯が刺さったらしい(笑)。

理由も居酒屋でうるさかったらしい。翌週はその歯抜けのヤクザと仲良く飲んだらしい(笑)。


おかんもやんちゃで、中卒で施設にいた時期もあるぐらい。

おかんは6人兄弟で4人の顔は見ず亡くなって、おかんが生まれた時にお母さんをなくしてる。

頑固一徹な親父に育てられて、ぐれたらしい。


二人はよくディスコにも行ったらしく、僕の音楽ルーツにも実はなってる。

二人は喧嘩はよくしたけど本当に音楽が好きで、家で調子いいときはスティービーワンダー流して踊っていた。

僕は子供ながら、いつも大声出して喧嘩してるのに音楽が流れると自然と体を動かして踊ってる。

しかも二人とも本当に楽しそうに。僕も一緒に交ると家族皆で小さいリビングではしゃぎまくった。

また、親父やおかんが嬉しそうに体を揺らしている事に安心感さえも覚えていったのだと思う。


ただ、喧嘩が絶えない日々が続いていつもでかい声で「じゃあ離婚したるわぃ」などの罵声を飛ばし、家の物がよく壊れてたのを覚えてる。

親父も頑固でプライド高いし、おかんも頑固で全くおれない。


2人のキャッチボールはいつも、続くことなくすぐに乱闘状態。ずっと心を通わせた話し合いをせずにどなり声だけを響かせていた。


そんな2人の状態を途切れることなく繋いでたのはおそらく僕ら兄弟だったんだと思う。


僕が家を出て、妹が家を出て、弟が家を出ると途端に喧嘩が収まらず、とうとう親父が疲れ果ててしまった。


もちろん、親父のせいではなくて、2人がしっかりと心を通わせた話をしなかったからなんだと僕は思ってる。


離婚する前には、うちのおじいちゃんがアルツハイマーで大変な状態を続かせて死去。おかんはお世話になった人だという事で一生懸命世話をしてた。


僕もある日実家に帰ったらおじいちゃんに「お前誰や」って言われた事はある(笑)。

これは最近分かったのだけど、おかんはその時から親父が死んだ時まで、約数年間うつ病だったんだと思う。


親父が我慢の限界、おかんはうつ病、家には誰もいない。残ってるのは家族みんなで住めるだけの、空き部屋だらけの一軒家。。。。

「家を売って、離婚する」という流れにやっぱり辿り着いてしまった。


実は僕はこうゆう状況になる事は予想してて、もう数年前からどうにかしないといけないとずっとおかんにゆってきたのに、どうする事もできなかった。

僕からしたら「やっぱりな」と思ってた。


とにかく、

僕が育った、田舎町三木市にあった一軒家が売りに飛ばされて、僕ら兄弟はついに帰る場所がなくなった。


これは正直辛かった。


親父は三木から離れ、もっと田舎に移動し賃家で一人暮らし、おかんは三木市に残って一人暮らし。

その当時の僕ら家族は、やっと音楽生活がどん底から少しだけ右肩上がりした程度で、とてもじゃないけど、安定もしない不安だらけの生活。

収入も最悪。弟にとっても仕事の事でいろいろうまいこと行かず、本当に家族皆にとって辛い生活が始まったのだった。


おかんは気さくで本当に心の底からのバカでお調子者で、とても明るいいい人だった。

それは周りのお友達にも呆れられるほど元気でいつも大きい声で笑ってた。

空気を読まず、空気を作る人だった。いつも周りに愛されていた。

だから、そんなおかんを誰も「うつ状態」だと思わなかった。

あいつ又変な事いっるな。ついに頭おかしなったな。と周りの友達や仕事の同僚も、おかんの状態に気付かずどんどん離れていった。

気づけば全ての縁を切って一人になってしまっていた。


おかんも親父がいなくなり、兄弟が全員離れていき、アルツハイマーのおじいちゃんもいなくなって、友達もいなくなって、

残ったのは妹が置いて行った犬2匹だけ。


おかんも自分がうつだと気づくこともなく、毎日のように兄弟に電話をしては不安や不満をたらしていた。


「お父さんはどこ?会いたい、今から探しにいく、なんで離婚したん。私お父さんがいないとダメ。どうしたらいい?、最後1回だけ会わせて」

という毎日同じ電話の内容を兄弟順番にしていってた。もちろんうちの奥さんにも。


僕の家庭はその当時、娘が生まれたばかり、一番家族を守らないといけない時期に離婚して、家を売り飛ばし、

娘の顔もしっかり見ないままいなくなっていったので正直心の底ではかなり恨んでた。


僕は自分の「稲田」という看板を背負うのが本当に嫌だった。


そんな離れ離れで皆が辛い毎日が続く中、最初の話に戻り、親父の白血病が発覚したのだった。病院から連絡を受けた時にはもう、最悪の状態で余命宣告もされた。


無菌室でハゲた頭の親父とガラス越しで会った時。

受話器をお互いにとった第一声は薄笑いでこういった。

「ハゲてもうたわ」

もちろん僕も、

「そやな。前から薄かったけどついにハゲてもうたな」

と言ってお互い本心を打ち明けず薄ら笑い。


すごく複雑な心境だった。。。。。。


そして月日は少しだけたち、いろんな検査を受けて、助かる方法、かかる費用、お金の計算

もして、生活を見直し、家族順番で親父の看病に行き、皆でこの病気を乗り越えようと話してた時に、、、、、、


痛恨の一言を親父から食らう事になった。


「おかんには絶対会いたくない。大輔頼む」と言われたのだった。


僕は、「わかった。」と。


親父の最後の頼みになるかもしれないと思ったから、長男として引き受けた。

その当時はまだおかんが「うつ病」だとわかってなかったから。


さらに、もう一発、親父は、遊びではなく、本気で最愛の人を見つけた様子だった。

このダブルパンチが僕にとっては本当につらい毎日になった。


おかんは、「会いたい、看病したい、なぜ会えないの?どこの病院?、復縁しなくていいから看病したい、ええ加減にしろよ!! もう死ぬ!! 殺したる!!」

とエスカレートしていく。


この話は長くなるし、気分を害するのでこの辺にしとこう。

とにかく、


僕は、おかんを親父と会わせなかった。

おかんが親父に最後に会ったのは、離婚してから、棺桶に入って息途絶えた時だった。


おかんは葬式で親父の顔をなでながら、「お父さんごめんね、お父さんごめんね、お父さんごめんね、お父さんごめんね、ずっと泣き叫んでいた」

申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これが正しかったのが本当に分からなかった。

今でも分からない。


僕は絶対親父の前では泣かないって決めてたけど、この時だけはだめだった。涙が止まらなかった。


おかんは心が本当にキレイで、誰も裏切らないまっすぐ突っ走る人だったから。

おかんの人生は20歳から親父とずっと一緒だったし、おかんは親父が大好きだったから。。。。。


かたや、


親父の方は最愛の人を見つけ、新しい人生を歩もうとしていた矢先の病気。本当に不運だと思う。


その最愛の人を見つめる親父の目は透き通っていて何も言えなかった。

そのパワーが親父が病気と闘う活力にもなっていた。


2回ほど、病院から電話を受けて「もう覚悟して下さい」と言われたが、乗り越えてた。

病院の人も「奇跡ですね!!」と驚くほどだった。


病院ではその最愛の人が親父の看病をし、毎日毎日遠いところから来ては朝まで一緒にいて次の日仕事にでかけていく。


おかんは会いたいのに会えない毎日に苛立ちをあらわにして家族全員にあたっていく。


これが約半年続く事になる。


無菌室、じゅん無菌室、通常病棟、集中治療室、親父はたらいまわしにされて、病気と闘った。


2月発覚後、7月ごろにはかなり回復して、完治はしませんが8月は外出を許可された。

親父とその最愛の人は大変喜んでいた。


しかし、8月からまた急激に悪化、そのまま元気になる事もなく息途絶える事になる。

親父が最後の俺に放った一言は「頼んだ」だけだった。


そして長男として、喪主を務め、本当に右も左も分からないまま、葬式を終え親父は天国へ。。。ん?地獄か?いや天国へと旅立ちました。


お別れの挨拶の時、葬式の人から紙を渡されてあたりさわりのない文面を読むことになりそうだったけど、


どうしても最後の親父の前で言いたかったら付け加えた。

「稲田太は親父としては最低で最悪な人でしたが、男としては最高の人でした。尊敬してます。」と。


僕はいまだに親父を憎んでるし、この出来事を自分の家族に伝承しないようにしようと心に誓ってる。


しかし、稲田太という人間は、人情に厚く、お調子者で、人気者で、仲間を絶対裏切らない男でした。プライドが高く、負けず嫌い。


稲田太の息子でよかったと思ってる。


今お仏壇が僕の狭いマンションにやってきて本当に責任を感じるし、大黒柱だって感じる。


これから何があろうと家族を守る。絶対に奥さんを幸せにするし、家族を大事にする。強く

誓いました。


あれから月日が経ち。


今日は2016年夏前、久々にこの下書きブログを見ました。


6月29日は親父の誕生日。

この下書きを公開します。


拡散してもらってOKです!!

ちなみに、今は、弟も結婚してもうすぐ第1子が生まれる。僕も第2子が生まれました。


親父の賃家にいた、トイプードル「かれん」は家で元気に暮らしてます。


そして、

うちのおかんは、三木から引っ越しで家の本当に近くに住んでおり、親父死後1年ほどでうつから完全に立ち直りました。


今ではおかんも第2の人生を歩んでおり、最愛の人を見つけたようです。

今のおかんはネガティブにはならず、ニコニコ毎日を暮らしております。


稲田家で6人も孫に恵まれて、おかんにとっては本当に幸せなことだと思います。


最後に!!

なぜこのブログを公開しようと思ったかといいますと、僕自身この出来事が人生で2番目に辛い出来事でした。一番つらかったのは、

26歳ごろ、娘が生まれて、音楽を続けて、奥さんの兄弟に罵倒されて、超貧乏で、8畳一間に家族でこっそり暮らしてた日々です。


本当にどん底に行った時でしたが、それはさておき、

今第3の波がやってきております。


僕はこの辛い時期に、SA WORLD MUSIC、STOIC RECORDS、9響、そして今頑張ってる奥さんにとても感謝しております。


今年の夏に、BrushMusicを法人化しようと思っております。


僕にとっては、1波目は人生岐路の波、2波目は身内の運命、3波目は独立の波です。


僕は日々、今立っているここはみなさんの支えであり、みなさんのおかげだと思っております。今年はいろいろな面で本当に勝負の年です。


これからも皆様のお力添えをお借りしつつ、僕ができる恩返しを全力でしていきたいと思います。


改めて僕の夢を言います。

音楽というツールで、素晴らしいコミュニティーを作ること。

そして、その音楽というツールで成功してより一人でも多くの人を幸せにすること。

僕は最終、音楽で社会貢献をしていきたい。

平和な暮らしの手助けをしたい。


まるで政治家がゆうような事を心の底から願っています。

嘘偽りのない透明性のある仕組みを作りたい。

本当に素晴らしい音楽だけが評価される世の中を作りたい。

日本の音楽が世界で勝負できるような環境作りをしたい。

と心の底から思っております。


これも僕が幼少時代に、喧嘩ばかりしてた両親が、音楽がなると2人仲良く踊りだしたり、

家族全員が楽しい時間を共有した記憶がそうさせてるのだと思います。


有言実行!!

僕の大好きな言葉です。

「大いなる力は大いなる責任が伴う」

僕は自分の発言や言動に恥じることなく、一歩ずつ歩みながら説明責任を果たせる人間になりたいと思っております!!


皆様どうぞ引き続きよろしくお願い致します。

長文読んで頂きありがとうございました。

※PSこれ自伝で小説にできるな(笑)

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